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旭川地方裁判所 昭和47年(わ)124号 決定

被告人

○○○○

右の者に対する傷害致死被告事件について、旭川地方検察庁検察官から、

昭和四七年一〇月九日の第五回公判において、被告人の司法警察員および検察官に対する

昭和四七年三月二二日付各弁解録取書、裁判官に対する同日付被疑者陳述録取調書、

司法警察員に対する昭和四七年三月二三日付、同月二七日付、同年四月三日付および

同月九日付各供述調書ならびに検察官に対する同年三月二二日付、同月二八日付、

同月二九日付、同年四月五日付、同月六日付、同月七日付および同月一〇日付各供述調書の、

同年一〇月二五日公判期日外において、被告人の司法警察員に対する同年四月七日付供述調書の、

同年一一月一九日の第八回公判において、被告人の司法警察員に対する同年三月一二日付、同月一七日付、

同月一九日付(二通)、同月二〇日付(二通)および同月二二日付各供述調書の証拠調請求があつたので、

当裁判所は弁護人の意見をきいたうえ、次のとおり決定する。

主文

検察官の本件証拠調べの請求をいずれも却下する。

理由

第一被告人の本件各供述調書の証拠能力に関する弁護人および検察官の主張

弁護人は、被告人の本件各供述調書は、捜査当局が当初から、いまだ適法に逮捕状、勾留状の発付を求めるに足りるだけの証拠資料を収集し得ていない本件傷害致死被疑事件についての自白を得る目的で、たまたま右事件の捜査中に探知した別件の殺人未遂被疑事件に名をかりて被告人を逮捕、勾留し、その身柄拘束状態を利用して獲得したもの、または右身柄拘束中の自供を資料にして本件傷害致死被疑事件について被告人の逮捕、勾留を獲得し、その後これをふえんしたものであつて、すべて違法に収集された証拠として証拠能力を欠く旨主張し、検察官は、被告人の右殺人未遂被疑事件および本件傷害致死被疑事件についての各逮捕、勾留およびその間の捜査方法には違法ないし不当な点は存しない旨主張している。

第二、当裁判所の判断

一被告人の本件各供述調書作成の経緯

一件記録によれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  本件傷害致死事件発覚の端縮とその後の捜査経過

(1) 昭和四六年一〇月三一日午前一一時ころ、旭川市宮前通西忠別川右岸川原、忠別橋の下流約64.7米の地点において男の死体が付近の住民によつて発見され、その所持品等からその身元が玉井岩男(当時四〇年)であることが判明した。

捜査当局は、右死体にはその頸にひもで絞められたような痕があること等から他殺の疑いがあると考え、直ちに検視を行なつたところ、死因は絞殺による窒息死と推定され、さらに翌一一月一日右死体について解剖が行なわれ、その結果右死体は死後二日ないし六日間位を経過しており、死因は肝蔵破裂による失血死であり、死体に認められる多数の創傷の形状や部位等からみて自殺とは考えられないことが明らかになつた。

(2) 旭川警察署では、死体発見の申告を受理した後直ちに、死体発見場所付近の実況見分を行なつたものの、付近に被害者のものと目される長靴一足が遺留されているのとゴム長靴の足跡があるのを発見したのみで、他にこれといつて有力な手がかりを得ることができなかつたため、その後は被害者がよく国鉄旭川駅待合室にたむろしていた労務者であつたとの情報を手がかりに、労務者らが出入りする、旭川市宮前通四の忠別川右岸にある通称厚生部落と呼ばれる一帯、駅待合室、労務者の稼働先等を中心として、被害者の足どり交友関係等につについての聞込み捜査に全力を傾けた。

(3) その結果、被害者は、昭和四二年六月ころ妻と別れた後、単身土工夫として各地を転々として生活していたものであり、その最近の足どりについては、昭和四六年一〇月一五日ころ、国鉄旭川駅待合室で労務者を集めていた荒関勝則に会い、同人から誘われて旭川市七条西四丁目本間荘内の同じ土工仲間である森田太郎方に赴き、同月二〇日ころまで同人方に泊つていたこと、その後、同月二三日午前四時ころ右旭川駅待合室で被告人と一緒に酒を飲んでいるところや翌二四日午前一〇時ころ、同駅待合室に来たところを目撃した者があること等が判明したもののその後の被害者の足どりについては全く手がりが得られなかつた。

(4) その後、被害者が被告人ともつきあいがあつたとみられること、死体発見場所が被告人の住む前記厚生部落のすぐ近くであつたこと、被告人は日ごろから酒ぐせが悪くよく他人に暴力をふるうくせがあり暴力事犯の前科も多数あつて粗暴な性格の持ち主であること、駅待合室でたむろする浮浪者等を自分のところに連れて来ては建築現場等で土工夫として働かせ、時にはこれら土工夫等に対して暴力をもつて制裁を加えるようなことをもしていたものとみられること等から、被告人が本件玉井殺害事件と何らかの関係を持つているのではないかと考えられるようになり、本件の捜査を担当する警察官が被告人方をひんぱんにおとずれるなどして、被告人等からの本件事件に関する情報の収集にあつた結果、被告人宅に出入しりしている者等から、被告人宅で当時被告人と同居していた赤石繁が被告人と喧嘩した際被告人に「『あれ』もばらしてやる。」とか「どうせ『あれ』があるのだから刑務所に入つてもおんなじだ。」等と怒鳴つていたことがあることや、被告人が本件被害者が被告人のところに来たとき喧嘩して殴つたけど死ぬ程ではなかつたと話していたことがある等を聞き込み、また、市内の自動車運転手から、同人が昭和四六年一〇月二六、七日ころの午前六時か七時ころ、仕事に行くためにダンプを運転して忠別橋をわたつた際、厚生部落に通じる坂の方から一人の男が二人の男に両腕をささえられるようにして忠別橋のたもとの道路を横断して忠別川の右岸提防の方に連れて行かれるのをみた旨の情報を得、さらには、本件捜査を担当していた旭川警察署巡査部長佐々木勲が被告人方に赴いた際、被告人が酒に酔つたうえで「玉井はリヤカーで連んだんでなし、俺は言わんぞ。」などもらすのを現認する等のことがあつたため、捜査当局では次第に被告人を本件玉井殺害事件の有力な容疑者と目するようになつていたが、昭和四七年三月初めの時点では、本件について被告人に対して逮捕状の発付を求めるに足りるだけの資料はいまだ収集することはできなかつた。

(二)  被告人の逮捕、勾留

1 被告人が間宮に対する殺人未遂被疑事件で逮捕、勾留されるにいたつた経緯

昭和四七年二月四日被告人と知り合いで被告人宅に出入りしていたことのある間宮健光が傷害事件の被疑者として逮捕され、その後同人が同人の被告人に対する暴行被疑事件(昭和四七年一月初めころ、被告人宅で、玉井が殺された事件のことから被告人と口論し、被告人を殴打したとの事件)について取り調べられている際、同人から自分の方でも昭和四六年六月末ころ被告人からナイフでのどを刺されたことがある旨の申立てがあつた。そこで二月二一日には間宮ののどの傷痕の部位を写真にとつて捜査報告書が作成され、同月二三日には右の傷痕についての医師の診断書等が作成され、三月二日には右事件の被害状況について間宮の司法警察員に対する供述調書が作成された。

ところで、被告人は、当時体の具合が悪くなり仕事ができないようになつたため、社会福祉事務所に相談した結果、生活保護を受けることになつたが、生活保護を受けるについて被告人が厚生部落にある当時の住居に居住することは環境等が悪くて好ましくないということから、昭和四七年二月二八日右厚生部落から旭川市二条一六丁目右一号武田アパートに住居を移し、被告人がこのような事情で住居を移したことは三月一日には捜査当局に判明した。

そこで、捜査当局では、被告人がこのように住居を変えたこと等から、被告人には逃亡の虞があるとして、とりあえず被告人を右間宮に対する被疑事件で逮捕、勾留し、右事件の取調べをするとともに、その身柄拘束状態を利用して前記のように捜査が難航していた玉井殺害事件についても併せて被告人を取り調べようと考え(この点は、捜査に当つた警察官の自認するところでもある。)昭和四七年三月四日、被告人の右間宮に対する事件を殺人未遂被疑事件とし、この事件について被告人に対する逮捕状を請求し、同日その発付を受け、同月六日右逮捕状を執行して被告人を逮捕し、同月八日には右事実について旭川簡易裁判所裁判官から勾留状が発付され被告人は旭川警察署留置物に勾留された。さらに同月一六日には旭川地方検察庁検察官から、旭川簡易裁判所裁判官に対し、被告人が右殺人未遂の事実についてその殺意を否認しており、右事件の起訴、不起訴を決するには被告人の凶暴性、生活態度、常習性の有無等の捜査をする必要があること、被告人には傷害、暴行の余罪が四件あつてこの種粗暴犯の常習者と認められるのでこれら余罪についても同時捜査、処理を必要とすることを理由として、同月一八日から同月二七日までの一〇日間の勾留期間延長請求がなされ、その請求が認容された。

2 被告人が玉井岩男に対する殺人、死体遺棄被疑事件について逮捕、勾留されるにいたつた経緯

その後、被告人は、右勾留延長期間中に赤石繁と二人で玉井岩男を殺害した旨を自供したため、同月一九日および同月二〇日付で右事件について被告人の司法警察員に対する供述調書が作成され、翌二一日には、右事件について被告人に対する逮捕状か発付され、翌二二日午前一一時三五分に右逮捕状が執行されるとともに、被告人は前記間宮に対する殺人未遂被疑事件に関して釈放され、同日右玉井岩男に対する殺人、死体遺棄被疑事件について勾留状が発付され、被告人はひきつづき旭川警察署留置場に右事件について勾留されることとなつた。さらに同月三〇日には旭川地方検察庁検察官から右事件について共犯者赤石繁の所在が不明であること、物的証拠の捜査をする必要があること等を理由に同年四月一日から同月一〇日までの勾留期間延長請求が出されてその請求が認められ、右延長期間の最終日である四月一〇日に被告人に対して右事件につき傷害致死罪として公訴が提起されるにいたつた(なお、公訴事実において右事件の実行共同正犯者とされている赤石繁はその後昭和四七年六月三日、大阪市内で右事件の被疑者として逮捕され、勾留されて取調べを受けたが、同人は右被疑事実については起訴されていない。)。

(三)  間宮健光に対する殺人未遂被疑事件での逮捕、勾留期間中の被告人に対する取調べの状況

1 間宮に対する殺人未遂被疑事件についての被告人に対する取調べ

被告人が前記間宮に対する殺人未遂被疑事件で逮捕された後の右事件についての被告人に対する取調べの状況をみると、被告人はこの事実については逮捕の当日である三月六日と同月八日に警察官による約六時間半の取調べを受け、同月七日、八日と検挙庁での取調べを受けたが、勾留状が発付された翌日の九日以後はこの事件についての警察官による被告人の取調べは一切行なわれておらず、また、検察官による取調べも、勾留期間の延長請求のなされる前々日(三月一四日)と前日(同一五日)の二回にわたつて行なわれ、一五日の日に供述調書が作成されたのみであつて、それ以後は行なわれなかつた。

2、玉井岩男殺害事件についての被告人に対する取調べ

これに対して、右の逮捕、勾留期間中の被告人に対する玉井殺害事件についての取調べの状況をみると、すでに逮捕の翌日である三月七日には、北海道警察旭川方面本部鑑識課に対し、前記玉井殺害事件に関する被告人のポリグラフ検査が嘱託され、同月九日に右ポリグラフ検査が実施されて陽性である旨の判定が出され、以後同月一二日までの間は連日相当長時間にわたつて(三月九日は午前九時三〇分ころ午後九時すぎまでの間に合計一〇時間弱、同一〇日は午前一〇時すぎから午後九時までの間に合計八時間弱、同一一日は午前九時二〇分ころから午後八時すぎまでの間に合計約七時間半、同一二日は正午すぎから午後五時前までの間に合計約四時間半)右玉井殺害事件について警察官の被告人に対する取調べが行なわれ、同一三日の日は後記のように別の余罪についての取調べにあてられたものの、翌一四日および一五日の両日は前記の間宮に対する殺人未遂被疑事件等についての検察官による取調べと併せて右玉井殺害事件についても警察官による取調べか行なわれ(一四日は合計約三時間、一五日は一時間強)、一六日以降は再び専ら右事件についての取調べがつづけられ(一六日は午前九時三〇分ころから午後五時前までの間に合計五時間強、一七日は午前九時すぎから午後五時ころまでの間に合計約四時間)、さらに勾留期間の延長がなされた一八日以降は専ら右事件のみについて警察官による被告人の取調べが行なわれ(一八日は午前九時四〇分ころから午後四時四〇分ころまでの間に合計約五時間、一九日は午前一〇時すぎから午後二時四〇分ころまでの間に合計四時間半弱、二〇日は午前一〇時すぎから午後四時すぎまでの間に合計約五時間半)、その結果右玉井殺害事件について、同月一二日、同月一七日にはそれぞれ一通の、同月一九日、同月二〇日にはそれぞれ二通の、被告人の司法警察員に対する供述調書(いずれも被疑者調書)が作成された。

ところで、被告人は、このような取調べに対し、当初は右事件については一切知らない旨供述していたが、同月一〇日自分は上野庄徳という者から、加藤文夫が右事件の犯人である旨を聞いたと供述し、翌一一日午後七時二〇分ころには、被害者が昭和四六年一〇月二九日被告人人方に泊り、翌三〇日被告人方を出た後、すぐ近くの路上で加藤文夫、広田歳光および氏名不詳の男の三名から殴られているのを目撃したというようにその供述をかえ(前記同月一二日付調書は右のような供述を内容とする。)、さらに、同月一七日には、前記加藤ら三名が昭和四六年一〇月二七日の午前五時半すぎころ、厚生部落の被告人宅居室で被害者に暴行を加えたのを目撃したものと再度その供述をかえ(前記同月一七日付調書は右のような供述を内容とする。)、勾留期間延長後の同月一九日になつて赤石繁と二人で被害者を殺害した旨を自供するにいたつた(前記同月一九日付および二〇日付調書はそのような供述を内容とする。)。

3 その余の余罪についての被告人に対する取調べ

また、右間宮に対する殺人未遂被疑事件での逮捕、勾留中のその余の余罪事実についての被告人に対する取調べの状況をみると、わずかに、三月一三日の日の午前一〇時すぎころから昼すぎまでの間に約二時間足らずにわたつて河村鉄雄を被害者とする傷害事件(昭和四七年四月一二日付起訴状第一の五の事実)について警察官による取調べが行なわれ、同日午後一時前からすぎころまでの間に四時間余にわたつて大麻取締法違反事件(前同日付起訴状第二の事実)について警察官による取調べが行なわれ、さらに同月一五日の日に前記間宮に対する殺人未遂被疑事件の取調べに併せて右河村鉄雄に対する傷害被疑事件についても検察官による被告人の取調べが行なわれたにすぎない。

二被告人の本件各供述調書の証拠能力

(一)  そもそもある被疑事実(甲事実)について逮捕、勾留中の被疑者を当該逮捕、勾留の基礎となつた被疑事実以外の事実(乙事実)について取り調べることは、必ずしも法がこれを一律に禁じているところとは解せられないから、甲事実について逮捕、勾留の理由、必要が存在する場合には、甲事実について逮捕、勾留中の被疑者に対しこの事実の取調べと併行して乙事実についての取調べを行なうことはそれ自体としては何ら違法な捜査方法と目されるべきものではない。その意味では、本件の場合、前記間宮に対する殺人未遂被疑事件で逮捕、勾留中の被告人に対して、捜査官が右事実についての取調べと併行して前記玉井の殺害事件についても取調べを行なおうとしたこと自体は、直ちに違法とすることはできないと言うべきであろう(右間宮に対する殺人未遂事件が相当旧い事件であり、また受傷の程度や被告人と間宮とのこれまでの関係等からみてとくに間宮の方で強い被害意識を持つていたものとも認められないことや、また被告人がそのころ住居を変えた理由が何ら逃亡のおそれを増大させるような事情によるものでなかつたことは捜査官側にも十分判つていたと認められること等から考えると、右事件について被告人に対する任意の取調べを行なわず直ちに強制捜査に踏み切つたことについては、はたしてそれだけの必要性があつたといえるのかどうか疑問とすべき点がないわけではないが、一応右事件が殺人未遂事件という重大な事件と見られうるものであつたことや被告人のこれまでの前歴、生活状態等からみて逮捕、勾留の理由、必要がなかつたとすることは困難である。)。

しかしながら、ひとたびある被疑事実で身柄が拘束されれば、その後はどのような犯罪事実の捜査にもこの身柄拘束状態を利用してよいというものではなく、とくに、甲事実についての逮捕、勾留を利用して、被疑者に対して、未だ適法に令状の発付を求めて身柄を拘束するに足りるだけの証拠資料を収集し得ていない乙事実についても実質的にみて乙事実自体について逮捕、勾留がなされているのと同様な取調べを行ない、その乙事実についての自白を獲得しようとするがごとき捜査方法は、被疑者の身柄拘束について各事件ごとの厳格な司法審査を要求している法の趣旨を著しく逸脱するものであり、許されないものと言わなければならない。

(二)  以上のような観点に立つてみると、本件玉井殺害事件についての警察における被告人の取調べの経過については、以下のような問題点が指摘できる。

(1) 前記認定のとおり、昭和四七年三月初めごろには、捜査官側では、被告人の性格、行状あるいはその言動等から、被告人を本件玉井岩男殺害事件の有力な容疑者と目するようになつていたが、未だ右事件について適法に令状の発付を求めて被告人を逮捕、勾留するに足りるような資料は何ら収集し得るに至つていなかつたことが明らかである。

(2) 被告人を右間宮に対する殺人未遂被疑事件で逮捕した翌日には、玉井殺害事件について被告人に対してポリグラフ捜査を行なう準備をし、二日後には右検査を行ない、以後一〇日間の勾留期間の大半を右玉井殺害事件についての被告人の取調べにあて、これに対して右令状請求の基礎となつた間宮に対する殺人未遂被疑事件についての被告人の取調べにあてられた時間は逮捕当初の極く小部分の時間にすぎない(警察における逮捕および最初の一〇日間の勾留期間中の被告人に対する取調べ時間約五五時間三〇分のうち、実に約四三時間が右玉井殺害事件の取調べにあてられており、令状請求の基礎となつた間宮に対する殺人未遂被疑事件の取調べにあてられた時間は約六時間半にすぎない。)。

(3) さらに、昭和四七年三月一六日には前記認定のように、右間宮に対する殺人未遂被疑事件について補充捜査の必要、同種余罪についての同時捜査、処理の必要等を理由として勾留期間の延長請求があり、同月一八日から一〇日間の期間の延長が認められたのであるが、その延長後の勾留期間における被告人の取調べは連日全て右玉井殺害事件について行なわれており、その延時間は、一五時間弱に達する。

(4) その間、被告人は、玉井殺害事件に関しては、警察官の取調べに対し、最初は、自分は全く事件と無関係であると主張し、その後の取調官の追求に対しても、まず加藤文夫の単独犯行である旨、次いで右加藤を含む三名の共同犯行であると供述を変え、その犯行の場所等についても何度か供述をかえ、最後に被告人が赤石繁と二人で自宅で被害者を殴り殺したとの供述をなすにいたつたものであり、しかも当時被告人は高血圧(同年三月五日ごろには一九〇―一二四)のため体調も思わしくなく、そのために被告人の方から申し出て取調べをやめてもらつたこともあつたことが認められるのであり、以上の事実よりすれば被告人の方では玉井殺害事件についての取調べを何とか回避したいと考えていたものの捜査官の執拗な取調べを受けた結果やむなく右事件についての自白をするにいたつたものというべきであり、被告人がこの事件について自発的、積極的に捜査に協力して自ら犯行を自白するにいたつたものとは到底認めることができない。

以上のような事実を総合すれば、本件の捜査方法は、間宮に対する殺人未遂事件での身柄拘束状態を利用して、いまだ適法に令状の発付を求めて身柄を拘束するにいたるだけの資料を収集し得ていない玉井殺害事件について、実質的に右事件について令状が発付されているのと同様な被告人の取調べを行ない、その自白を得ようとしたものと言わざるを得ず、右のような態様での被告人に対する取調べは違法、不当なものであり、それ故右勾留期間中に作成された被告人の司法警察員に対する昭和四七年三月一二日付、同月一七日付、同月一九日付(二通)および同月二〇日付(二通)各供述調書はいずれも違法に収集された証拠であつで証拠能力を欠くものと言わざるをえない。

(三)  さらに、本件各供述調書等のうち、被告人が玉井殺害事件について逮捕、勾留された後に作成された各供述調書等の証拠能力について考えると、右玉井殺害事件についての被告人の逮捕、勾留は専ら前記のように収集過程に違法があるため司法審査の資料として用いることが許されない被告人の司法警察員に対する前記各供述調書を被告人の犯罪の嫌疑を疎明するための資料として用いることによつてなされたものと認められるから、右の逮捕、勾留はいずれも違法な身柄の拘束にあたるものであり、しかも、後記の各供述調書等は、その間に間宮に対する殺人未遂被疑事件での勾留中に作成された前記各供述調書に基づきこれを利用して、あるいはその影響下においてなされた陳述について作成されたものと認められるから、被告人の司法警察員および検察官に対する昭和四七年三月二二日付各弁解録取書、裁判官に対する同日付被疑者陳述録取調書、司法警察員に対する同月二二日付、同月二三日付、同月二七日付、同年四月三日付、同月七日付および同月九日付各供述調書ならびに検察官に対する同年三月二二日付、同月二八日付、同月二九日付、同年四月五日付、同月六日付、同月七日付および同月一〇日付各供述調書もまた、いずれも証拠能力を欠くものと解すべきである。

よつて主文のとおり決定する。

(佐藤文哉 涌井紀夫 澤田経夫)

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